たべたもの

どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう。(ブリア=サヴァラン)

慈姑事変!

おせちの材料を買出しに行ったとき、ふつうの慈姑がなくて、ジャンボ慈姑というとても大きい慈姑しか売っていなかった。うちの小さいお重には似合わない。遠近感がおかしい。っていうかジャンボ慈姑ってなんだよ。

というわけで慈姑はあとで買おうと思っていたら、どこも売り切れ。

まず駅前のダイエーになかった。慈姑はありますかと聞いたら若い店員さんはクワイを知らなかった。ちょっと驚く。

次はイカリ。売り切れましたと言われる。6時閉店ですという声にビビリながら、ミニコープへ。ここはきのうもなかった。店員さんが確認してくれた。やっぱりない。みんな慈姑食べないの?

4件目の大丸ピーコックへ。着物でなくてよかった。自転車に乗れるもんね。……ここにもない。出来合いのおせちセットの中にも入ってない。みんな、おせちに慈姑はいいのか?

自転車をこぎながら私のおせち人生が走馬灯のように蘇る。わけても子供がおせちを食べだしてからのお正月が。いたいけな子供に慈姑を見せて、「これは芽が出ますように、って食べるんやよ」って話していたあの日々。芽が折れていたら目が出ないってことになって大変と気を遣って皮を剥いたあの日々……。

そしてふと気づいたんだけど来年は受験である。うわわわわ。

もう泣きそうである。なんという母親でしょう。受験生のおせちに慈姑を入れないなんて。願書を予備校のDMと間違えて廃品回収に出しそうになったことでも反省しなかった私なのだけど、ここで慈姑が手に入らなかったら母親失格のような気がしてきた。

「慈姑をお持ちの方いらっしゃいませんかぁー」と町内を叫んでまわりたくなりながら自転車をこいで、5件目のスーパーにそれはあった。最後の4パック。輝いて見えた。3パック買った。2パックでいいんだけど念のため。念のためってもうなんだかわからない。

そんな物語のある慈姑だけど、こーふんして話す私に子供は一言「あ、そう」と言っただけだった。でも満足。おせちには慈姑がなければならないのだ。